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土と音楽  中澤 きみ子 氏
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私は 1950 年に長野県上田市に生まれました。今年で 65 歳、5歳からバイオリンを弾いていますので 60 年弾いてきたことになります。60 年ですよ!バイオリンばかりに時間を費やしてきました。あぁ、私の人生、これでよかったのかなあ、なんて思ったりもしますが、私が 60 年をバイオリンと共に生きることになったのは、100 年前の私の祖母の結婚にさかのぼります。祖母の嫁入り道具の一つがバイオリンでした。バイオリンはいつも囲炉裏にかかっていました。私がバイオリンを手にするようになったのは、戦後の父の「思い」を経てのことです。

終戦を迎え、ふるさとに兵隊さんたちが帰ってきました。大きな喪失感と絶望のような気持ちを抱えながら、故郷に帰ってくる兵隊さんの中に、私の父もいました。「負けて帰ってきて、上田のまちの坂を上っている途中でバイオリンの音が聞こえた。その音を聴いたとたん、涙がわーーーっと出た、その場にへたり込んでしまった。道端にしゃがみこんで動けなかった。そのとき、泣きながら思ったんだ。もし、自分に好きな人ができて、子どもができたら、バイオリンを習わせようって」のちに父がそのときのことを、ぽつりと私に話してくれました。その父の思いを受けて、私はバイオリンを習うことになったのです。

私は母のおなかにいるときから、そんな父の思いを感じて育ちました。父は誰に習うともなく我流でバイオリンをひきました。さらさらと水の流れる河原の横に腰かけて、父がバイオリンを弾き、その横に座った母が歌う。澄んだ美しい空気を吸いながら、水のせせらぎの音と一緒に奏でられるバイオリンの音。なんて幸福な時間なのだろうと思います、今はもうそんな環境がないでしょ。

バイオリンを我が子に習わせたいといっても、うちはバイオリンを習いに行ける余裕のある家庭ではなかった、すごく貧乏でした。戦後、大きく経済が動く中で、音楽に関わることができたのは、いわゆる「成功者」ばかり、デパート経営者やお医者さんのお嬢さんばかりでした。私の 5 歳の誕生日の夜、父と母が隣の部屋でしゃべっていた声を覚えています。「きみ子にバイオリンを習わせたいよね」「幼稚園なんか行かなくていいよ」「幼稚園の代わりにバイオリンを習わせに行かせようよ」って。両親のこの会話が、私の人生で最初の記憶です。バイオリンが私にとってどんなに意味のあるものか、分かっていただけるのではないかと思います。

ちょっと話がそれますが、いまも私は、マシュマロやシュークリームを見ると、つい買って食べたくなります、当時、洋菓子にあこがれていた気持ちがいまだに抜けないんです...、あ、それはただの食いしん坊だよって言われちゃいそうですね。子どものころのうちの食事は、野菜とお米とお餅だけでした。だから、子どもの私には洋菓子が本当にキラキラして見えていたんです。

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