セッション
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何が私を駆り立てるのか? 中貝 宗治 氏(豊岡市長)
4. 「中貝流」はいかにして育まれたか(1)
せまり役:それでは次に、市長になるまでのことを聞きたいと思います。 利発な子どもでしたねえ(笑)。小学校では心臓に持病があったので、いつも体育の時間を見学していました。運動会で走ってもビリから 2 番目とかそんな感じで、そういうことから、言い訳することを覚えた気がしますね。 高校では、「帝国大学同好会」をつくっていました。授業には出ないんです。退学にならないぎりぎりまで休んでいました。そして普段行われるテストでは欠点をとり、実力試験になるとトップに躍り出る、というような生徒でした。そういうことに「美学」を感じていたんですね。 せまり役:長髪ボサボサでいつも眠そうに歩いているのが中貝君でした。上履きのスリッパをペタペタいわせながら歩いているんです。僕たちの同級生には優秀で変わった人が多かったですよね。 高校が火事になったことがあった。ちょうど 3 年生の受験前のことです。爆発の音がしたという証言があって、「爆発装置を作れそうなやつは誰だ!」ということになった。僕は文系でしたから警察にしょっ引かれませんでしたが、理系の優秀なやつが二人、警察に連れて行かれてしまったということもありましたね。 せまり役:ああ、ありましたねえ。「彼らなら作りかねない」なんて、僕たちも無責任なことを言ったりしてね(笑)。 で、高校は焼けて灰になっていた、それでは僕たちで寺子屋をやろう!と、同級生のお寺の本堂を借りて、勉強していました。授業の始まりを鐘で鳴らしたりしてね。同級生同士で各科目の担当をするんです。僕は古文担当だったかな。 せまり役:大学時代はどうでしたか。 授業に出ないで飲んだくれていました。とにかくずっと飲んでいたのでいつもお金がない。友達の部屋で仕送りが来るのを待って踊っていましたね。 せまり役:詩を書いていたのは知らなかった。何を書きたかったのですか? うーん。父が結核で、ずっとはなれ(別棟)に住んでいました。開業医の先生がたまにやって来るくらいで、子どもは中に入れなかった。だから、子どものころの思い出がないのです。写真もほとんどない。父の不在、欠け、埋められない何か。そういうことを詩に書きたかったのかなあ。 → 次のページ「5. 「中貝流」はいかにして育まれたか(2)」 |