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パスワードを忘れた方
セッション
禅と無  ネルケ 無方 氏
1.キリスト教文化の中で生まれ育って(生と死を考える少年時代)
2.禅に出会う(坐禅で目覚めた身体感覚)
3.ドイツから日本へ(坐禅がしたい!)
4.修行時代(お前なんかどうでもいい。お前が仏になれ!)
5.安泰寺の住職になる(きゅうりのように育ちなさい)
6.「無」
4.  修行時代(お前なんかどうでもいい。お前が仏になれ!)

一年の短期日本留学を終え、私はベルリンに戻って、休学していたベルリン大学を卒業しました。そして1993年(平成5年)に出家。曹洞宗の雲水(うんすい、禅宗の修行僧のこと)となりました。雲水となった私がまずしたことは、「典座(てんぞ)」と呼ばれる台所の当番でした。典座は非常に重要な修行の一つとされていますが、私にとっては、かまどの使い方から火のおこし方まで、初めてやることばかりです。最初の1カ月は見習いです。朝は4時に起きて、玄米のご飯と2品のおかずをつくります。少し慣れてきた頃、うどんをつくってくれとリクエストされました。うどんが何かもよくわからないままに、がんばって初めてつくったら、「なんだこれは、固すぎる。スパゲティみたいじゃないか」と言われる。再トライしても「なんだこれは、緩すぎてお粥みたいじゃないか」とまた言われる。

私は自分の思いを正直に打ち明けました。「僕は料理を学びに来たんじゃない!」と。すると、私の師匠はこう言いました。「お前なんかどうでもいい!」と。「お前なんかどうでもいいんだ。お前のことなんてどうでもいい。お前の修行ではないんだ。」と。そう言う一方で、師匠はこうも私に言う。「自分を忘れて初めて、自分が仏になる。お前こそが仏なんだ。10人いれば10人各々が自分を忘れて、それで初めて安泰寺をつくるんだ」と。「バラバラに各々が安泰寺を求めて、そんなことで、安泰寺がつくれるわけがない。自分を手放して忘れてこそ、自分の人生がつくれるんだ」と。

「身心脱落(しんじんだつらく)」ということがあります。一切のしがらみから脱した心身共にさっぱりした境地のことです。身も心も投げ出して、一切を放下し、何にも執着もない無我の境地。身心脱落してはじめて、己が仏になる。師匠はそのことを私に言いたかったのでしょうね。「お前が安泰寺をつくるんだ、自分がつくるんだ」ということは、「お前の都合のいいようにせよ」ということでは決してないのです。

また、ある時、私は師匠に尋ねました。「いったい、安泰寺の本当の仏は何仏ですか?」と。安泰寺には、トイレの前や、お風呂、壁、本堂と、いたるところにいろんな神様がいたからです。文殊さま(知恵の菩薩)、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)、観音様...。すると、師匠は「仏は君自身だ。君が仏にならなければ、何にもなれない!」と言いました。仏の道は君の足元から、君の踏み出す一歩から始まっていると師匠は私に伝えたかったのです。

「お前が仏となる」ということが、最初は分からなかった。どうやったら何かをつかむことができるのだろうか。けれど、答えはどこからもやってこないんです。自分がつくるんだ、という主体性と、私なんてどうでもいいんだ、と自分を忘れて手放すことは、そのままで全てなのです。すべてを手放していること、そのことが、もうそのまま答えなんですよね。今ここ、この場に私の命がある。その命に出会う。そのことに後で気がついて何かを悟るのではなくて、そのまま、ただ、そのとき、自分が仏として生きること。そのことがそのままで「全て」なんだ。坐禅をすることも、食べることも、すべてそのままで。

そんな気づきを得はじめたころ、私はしばらく山を下りて(安泰寺から離れて)、もっと人が多くいるまちの中に道場をつくろうと考えました。一般の人でも誰でも坐禅ができる道場を自分の手で開きたいと思ったからです。初めて私が日本に来た時、日本には7千500もお寺があると言うのに、坐禅のできる場がなかった。坐禅のできる場所を、自分でつくろう。2500年前の釈尊(しゃくそん)も、宮殿で生まれた身分でありながら、何も持たずに、菩提樹の下で修行をして生きた人です。僕も、釈尊のように、テントとゴザから始めよう。そこで私は、大阪城公園に暮らす先輩たち(ホームレス)を見習って、ブルーシートと段ボールで禅道場をつくりました。自分で言うのもなんですが、結構いい場所を確保して、とても眺めのいい道場でした。

私はその時33歳でした。ブルーシートの道場をつくっても、最初は誰にも知られず、人が来るわけがありませんでした。大阪城公園の近くにパナソニックのオフィスがあり、その1階にカフェがありました。このカフェではネットが無料で接続できたので、私は坐禅会のホームページをつくって、インターネット上で情報発信を始めました。すると、ぽつり、ぽつりと人がやって来るようになったのです。変わった人たちはいるものです。この頃にはうどんをつくるのも上手になっていましたので、私は自慢のうどんをふるまって、毎朝6時から、この段ボールとブルーシートの道場にやって来る人々と共に坐りました。

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