セッション
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禅と無 ネルケ 無方 氏
1. キリスト教文化の中で生まれ育って(生と死を考える少年時代)
みなさん、こんにちは。ネルケと申します。私は、これまでにも豊岡市内で何度か講演をさせていただいたことがありますが、今日のような雰囲気で、若い方もたくさんおられる場での講演は初めてです。今日は、自己紹介を交えながら「禅」についてお話しし、最後は「無」について触れたいと思います。 私は今年で48歳になりました。生まれはドイツ、ブラウンシュヴァイクという街です。ブラウンシュヴァイクは東西ドイツのほぼ真ん中に位置する当時の西ドイツの地方都市です。祖父は教会の牧師(プロテスタントのルター派)をしていました。キリスト教は仏教と違って、「人は原罪を持って生まれてくる」ことを基本とする考え方ですから、その原罪を洗い流す必要があります。そのため、クリスチャンの家に生まれた、物心がつく前に洗礼を受けることになります。私も生まれて半年のころには、祖父の手によって洗礼を受けました。そんなキリスト教文化の中で育ちました。 祖父は私によく本を読んでくれました。これは子どもの頃の私の写真です。7歳の時、私の人生を変えるできことが起こりました。母が37歳でガンで亡くなったのです。母の死を契機に、私は哲学に興味を持つようになっていきました。人はどうして生きなければならないのか。生きるとは何か。自殺はいけないことなのだろうか。 子どもだった私は、父親や先生に尋ねました。すると彼らは、「そんなことは、もっと大きくなってから、中学生か高校生になってから勉強すればいい」と言う。誰も僕が納得する言葉を返してくれなかった。私は、大人たちはずるいななあと、なんだかごまかされているように感じていました。 だから、学校から帰ったら、すぐに部屋にひきこもって、一人でベッドに寝ころんで、黙って考え事ばかりしていました。ずっと寝ころんで、考えて、考えて、それでもいくら考えても、答えは見つからない。あまりに引きこもっていた私を心配して、父親には「ちょっと外にでかけて遊んでこい!」と言われる。仕方がないから、森まで歩いて行って、じっとすわって過ごして、一時間が過ぎたころ、また部屋に戻って引きこもっているような子どもでした。 ドイツでは、14歳で「堅信(けんしん)」と言われる通過儀礼があります。キリスト教圏では、産まれるとすぐにキリスト教の洗礼を受けるのが一般的ですが、1人の人として自分の判断ができるとされる14歳になったときに、クリスチャンとしての信仰を固めるかどうかを、自分の意思で決めるのです。自分がこれからもキリスト教を受け入れるのか、自分の宗教を自分で決めるのです。もちろん、「もうキリスト教はいらない」と拒否することもできます。ここでキリスト教を受け入れないと決めれば、学校の「宗教」の時間に出なくてよくなります。代わりに、「道徳」や「哲学」の授業を受けます。 さて、私はどうしたか。キリスト教を受け入れました。理由は大きく二つありました。1つには、まわりのみんながそうしていたから。もう1つは、キリスト教を受け入れると、親戚からたくさんのお祝い(お金)をもらえて祝福されたからです。お祝いは欲しかったんですね、やっぱり、子どもですから。しかし、心からキリストを信じているかというと、そうではなかった。牧師である祖父に「神様ってほんとうにいるの?」と、どんなに真剣に聞いても、「大きくなったら分かるから、子どものお前は、いまそんなことを考えなくていいんだ」と言う。牧師なのに、そんなふうにしか説明しない祖父にがっかりしたというか、不信感を抱いたというか、「どこにいるのかもわからない神様なんて、つまらないなあ」と思っていました。 それに、ある年のクリスマスのとき、サンタさんの正体が、ひげをつけた隣のおじさんだということに気がついてしまった。ドイツのクリスマスでは、サンタさんは、左手にプレゼントがたくさん入った大きな袋を、右手に竹ぼうきのようなものを持って、子どものいる家を周ります。「いつもいい子にしてるか」と聞いて回って、悪い子には竹ぼうきでお仕置きをするのです。 私の家にも毎年サンタがやってきました。「オラフ君いるかな、オラフくん、悪いことせずに、いい子にしてたかな」とサンタさんが言います。オラフというのは私の名前です。内心では、「僕はどんなときも、ずっと、いい子ではなかったかもしれない...」なんて思いながら、それでも、「はい!」と答えて、サンタさんからプレゼントをもらっていた。心の中で葛藤しながら、プレゼントをもらっていたのです。なのに、そのサンタさんは、隣のおじさんだった。なあんだ!!ますます大人の言うことを信じられなくなる。 そもそもキリスト教では、生きることに一人で真正面からぶつかっていくような自問はなく、「隣人を愛せ」と説くのですね。隣人を愛することから始めよ。そのことが、自分を愛することになるのだと。しかし、私の疑問は全くそこになかった。そもそも、「生きることになんの意味があるのか」、その答えを私は求めていたのですから。 それなのに、キリスト教では、隣人と自分の関係が前提になっていて、自分の生きていく価値を自問しない。もしも、生きていることに意味がないのであれば、自分を愛することに意味がない、必要もない、いわんや隣人をや。隣人を愛することから始めよと説くキリスト教を、私が信頼できなかったのは当然のなりゆきでした。 しかし仏教は違った。仏教では「そもそも苦である存在をどうするか」、そこから出発していたからです。私には釈迦の問いが切実に思われた。生きていることに価値があるのだろうか。いったい、何の価値があるだろうか。死んだ方がましじゃないのか。生きることは苦しみに耐えることなのだろか。そんな生なら、死んだっていいのではないか、自殺しようか。実際、僕には自殺願望もありました。ただ、勇気がなかった。いつだって死ねる。そう思って生きていました。生きることが辛いというよりも、退屈というか、そういう毎日でした。 → 次のページ
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