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アルメニア <十字の石> を訪ねて  長岡 國人 氏
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僕はね、なんというのか、ちょっと危険な「匂いのする場所」をかぎ分けるというか、呼ばれてしまうというか、自らそこに飛び込んで行っちゃうというようなところがあってね、日本を離れて移住した先のドイツがまさに世界の中のそういう時代の「場所」でした。実際、1985年ごろからドイツは非常に微妙な時代に突入していくわけでね。

ベルリン市立アカデミー(グラフィック専攻)、ベルリン国立芸術大学・大学院(版画・絵画専攻)を卒業してからは、ビエンナーレに出展したり、版画を作成したり、学校で教えたりしていました。そうして45歳になった日、忘れもしない「あの日」が来るんです。

日付も覚えています、1985年の12月10日。お金がないから僕は家賃の安いアパートに暮らしていました。だいたい高級なマンションは通りに面した日当たりのいいところにあってさ、僕の住んでたようなアパートは、通りから奥まったところにあってね。そのアパートの4階に住んでいた。
その寒い冬の日、僕の部屋の呼び鈴が鳴った。誰だろうとドアを開けると、そこには、中世から現代によみがえってきたような男性がおもむろに立っていた。だってさぁ、重厚なマントを着てね、黙って一通の手紙を銀のお盆にのせてすっと僕の方に差し出すわけ。その手紙を見たら、赤いロウで封印されてるの。どう見たって郵便配達の人じゃないんだよ。なのに、手紙を持ってきてさ。

僕はもう訳が分からないから、一体この人はなんなのだろう、この手紙はなんなのだろうと、言葉もなく立っていた。すると、その男の人はこう言ったんです。「今日はノーベルの命日です。ノーベル賞の授賞式の日です」 え? ノーベル? ノーベル賞? 通りから奥に引っ込んだアパートの4階に住む住人のこの僕に、一体ノーベルがなんの関係があるのって? もうびっくりですよ、何かの間違いなんだろうってね。

そうしたらその男性はこう続けて言った。「ノーベル財団のとある機関から、あなたにとても重要なお知らせを持ってきた」「あなたの生まれた日本は、これまでにノーベル賞の受賞者を6人輩出されている。その6人を讃えるポートフォリオ(作品集)を、あなたに版画でつくっていただきたい、と。ヨーロッパでの僕の活動を認めていただいてこの依頼がやってきたわけだけれど、ともかく、12月10日のあの日のことは忘れられません。

湯川秀樹、川端康成、朝永振一郎、福井謙一、佐藤栄作、江崎玲於奈。たった6枚だけの銅版画で、このたぐいまれな個性ある6人の功績をどうやって表現して称えることができるというのか。
不穏な空気の漂うベルリンで、僕は日本のことを、日本と西洋の文化と歴史のことを、徹底的に考えることになったわけです。それでこう思った。どんなに世界の情勢が暗く「闇」に満ちているように見えても、人類は自然の一部であって、自然が示している無限の言葉を探求し、自然との調和を求めるところにこそ「光」がある。そのような自然に対する深い思索の姿こそが日本的な感性であり、この6人に共通するものであると。

それで、僕は作品のテーマを『闇の中の光』として、2年がかりで6枚の銅版画を作成しました。科学・政治・芸術のすべてを含んだうえでの「希望の光」、破壊的な今の世界の動きを食い止める試みとしての、僕の強い願いを込めて。そして、僕はこの作品に、川端康成のテキストを添えました。彼が1968年にノーベル文学賞を受賞したときのスピーチ、みなさんもよくご存知の「美しい日本の私」と題された、あの美しいスピーチです。明恵上人の歌をひいて始まるスピーチね。まさに、明恵上人の自然・月に対する感性、虚空に光を見る澄んだ思索のあり方こそが、このときの僕を貫いていました。

ということでね、6人のノーベル賞受賞者をたたえる作品づくりを通して、僕は徹底的に「日本」を考えたわけです。そして考えた結果たどり着いた「闇の中の光」という一つの概念は、20年来ドイツに暮らして作品を作るなかで、僕が必死で探し求めていたものだった。僕は強烈にこう感じたのです。ああ、僕の中で「東洋回帰」がはじまった、と。日本に見切りをつけて日本を逃れてドイツにやってきて、帰るつもりなんてなかったのに、僕の中で「東洋・日本」が蘇ってきちゃったんです。自分の内なる風景への「回帰」、「光」を発するものをもう一度発見すること。

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