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アルメニア <十字の石> を訪ねて  長岡 國人 氏
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長岡國人
1940年、長野県浅間山の山麓で生まれる。1歳のとき爆発した浅間山のことを、「私の母は2人いる、1人は生みの親、もう一人は浅間山だ」と言う。
多摩美術大学デザイン科卒業後、3年間、東京でデザインの仕事に従事。1966年にドイツへ移住。東西ドイツが統一される1990年をはさんで、世界の激動の時代、東西冷戦下をベルリンで過ごす。1991年に日本に帰国するまでベルリンを拠点にヨーロッパ各国で版画・インスタレーションを精力的に作成、美術教師としても多くの教育機関で教鞭をとる。
作品はヨーロッパのいたるところに点在しており、日本では京都国立近代美術館、和歌山県立近代美術館、町田市立国際版画美術館などで一部がコレクションされているのみ。京都精華大学名誉教授。

みなさん、こんにちは。長岡です。
僕がベルリンでどんなことをやってきたのか、それはどんな時代だったか、なぜ版画か、そして出会うべくして出会ったアルメニアの「十字の石」のこと。その全ては複雑につながっていて一体になっている、とても深いことだから、今日は時間が短かくて、どうやってお伝えしたらいいのか、悩むんだけれど、それに、「アルメニア」のことは皆さんほとんどご存知じゃないだろうから、アルメニアのことも少しはご説明したい。写真をたくさんもって来ましたので、それを見ていただきながらお話していきたいと思います。

僕は、23歳で多摩美のデザイン科を卒業して、26歳まで東京のデザイン会社で働いていました。3年間で僕はデザイン会社を5つも転々とした。このまま日本にいてデザイン事務所にいても将来は分かった。もう先が見えちゃった。もう「日本」はいいんじゃない?って思って、早いとこ日本から足を洗おう、とっとと海外に引っ越ししてしまおうって思ってね。ま、だいたい僕には放浪癖があるんですね(笑)。

それで1966年、突然引っ越ししました。まだドイツが東西に分かれていた時代ですよ、ドイツの西ベルリンにね。まあ、言ってみればヒッピーみたいなもんです、その時代の空気だったと言ってもいい。海外渡航の自由化がされたのが1965年のことで、当時のちょっと変わったやつは、みんな海外に行っていました。

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