セッション
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分水嶺を超えた社会の福祉 西池 匡 氏
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出石の勝林寺(浄土真宗)の住職をしております、西池と申します。私には兄がおりまして(兄は中田孝一さんと同級生という関係です)、次男なものですから、寺の跡を継ぐなんて思ってもいませんでした。しかし、兄がアメリカにとんずらしてしまいましてね(笑)。私が寺を継ぐことになったんです。私は大学は龍谷大学に通ったのですが、その時から仏教と福祉を学んでいましたので、仏教に全く興味がないということでもなかったんです。 けれども、私のことを「住職」だと思っていない人、結構いらっしゃるんですよ。「福祉関係の人」だと思っておられる人の方が多いかもしれない。こんな格好(袈裟)をさせてもらっているわけですが、私自身は、「西池さんって、ブルースシンガーですよね!」と言われる方がうれしい。あるいは、「ギタリストでしょ」と言われると、一番うれしいかもしれません(笑)。いろいろなことをして、いろんな顔で出没してみなさんと関係をもっております。 さて、まず初めに、少し仏教のことを。仏教について話し始めたら、長くなっちゃいますので、手短に申しますが、仏教を学ぶとは、ゴーダマ・シッダールタ、つまりお釈迦様のことを学ぶことです。お釈迦様は生きている間に、いろんな人に教えを説いた。その人、その人に合せて、あなたは~ですよ、と、話すわけですね。 お釈迦様自身は、何も書き残してはいません。ですから、お釈迦様が死んだあと、私はお釈迦様にこう聞いた、いや私にはこう言われた、と、いろんな言い伝えが出てくるんです。それで、現在で言う「マニュアル」のようなものが整備されていくのですが、そのことでかえって、みんながマニュアルを読むようになると、誰も悟りのところにいくことができない、という事態が生まれてくるんです。 私は大学で、仏教とは「仏になった人の教え」を知ること、「仏になる教え」を知ること、として学びました。仏教では、誰もが仏になれると説きます。これを仏教用語では『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)』と言います。 仏教は鎌倉時代に大変革期を迎えます。禅宗の道元、日蓮らが、原点に還ろう、仏の悟りへ、ただ座ろうと説きます。しかし「ただ座れ」というこのシンプルな言葉さえも、その中身が失われ、形骸化していくのです。親鸞もこの時代に生きました。親鸞は「南無阿弥陀仏」をただ唱えることを説いた。うちのじいさんはいつも「南無阿弥陀仏」と口に出していた(私の寺は浄土真宗ですからね)。じいさんは、単に声に出していたわけじゃないんですよね。声に出すことで、じいさんは仏に出会っていたんです。 仏に出会うこと。これこそがまさに「仏道」において最も大事なことです。仏道とは、仏に出会うこと以外にないのです。仏に出会うには二つの方法があるとされる。一つは、「見仏(けんぶつ)の道」です。一心に心を集中して仏さまの姿を見ること。そしてもう一つは「聞名(もんみょう)の道」です。仏さまの声として聞こえてくるものを聴くこと。しかし、出会うことが、非常に難しいことなんですね。みなさんは、自分が本当に何かと出会っていると自信を持って言えますか?いま、私と出会っていると言えますか?本当に出会うとは、なにか。これは、考え始めると非常に深い思想・哲学のようなものなのです。 仏道において、仏に「出会う」ことが何より大切だ。しかし、「出会う」ことの大切さは、仏道におけるものだけじゃない、私たちの暮らしの全てにおいて、本当の「出会い」を促進していくことが大事なんじゃないのか。仏教の勉強をしていた学生の私にとって、出会いのための技術を学ぶことは、まさに切実な問題でした。 → 次のページ
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